【入峯修行】 |
現在の山伏、先達、優婆塞行者。之には大きくは二つの修行が在ります。
一つは大峰山での先達としての修行。
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【護摩修行】 |
もう一つは柴燈大護摩供。
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大峯山
出迎え不動明王 |
【大峯山】
多くの修験道山伏の修行の御山が、女人禁制を解き、開かれた登山・ハイキングの御山、観光の傾向が強い御山と成りましたが、大峯山山上ヶ岳は(奈良県吉野郡天川村)は、日本で貴重な女人禁制の山伏修行の御山と成っています。
その山頂には大峯山寺(奈良県吉野郡天川村大字洞川494)が在り、九重守(ここのえまもり) 等も販売されている。大峯山寺では護摩供等、大峯山護持の寺院としてのお役目を果たされています。また護持院直属の講社や、講社が集合して役講と共に、5月3日の戸開けの行事や、9月23日戸閉めの行事等のお役目を果たされています。
また大峰山寺では大峯山で事故が増えたのに対して、平成28年に事故は自己責任の書類も発行されました。
大峯山寺本堂は、わが国の高所最大の木造建築物で、国の重要文化財です
山上ヶ岳は修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたといわれている我が国修験道発祥の地であります。
頂上にある大峯山寺は、5月3日戸開け、9月23日戸閉めの儀式が執り行われる。
1936年 「吉野熊野国立公園」に指定
2004年07 ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録
【近年の修験道】
近年になり、明治7年(1874年)には、明治政府により修験道が禁止されています。
金峯山寺(金峯山に点在する寺院群の総体)は、一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。
其の後、戦争の時代、昭和14年(1939年)9月第二次世界大戦の始まり、昭和20年(1945年))の敗戦終結。
昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗されています。
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【 大峯奥駆道】
大峰山護持院櫻本坊では毎年7月の中旬に大峯山奥駆修行 が行われている。
吉野山から大峯山系を経て熊野の熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に至る約80kmの道を「大峯奥駈道」(おおみねおくがけみち)と言い、修験者の修行の道となっています。
大峯奥駆道が開かれたのは長久年間(1040〜1044)に修験者の義叡、長円により熊野から大峯へと開かれたと言われています。
伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれます。
奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい、第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といいます。
その昔は天台宗系聖護院(本山派)は熊野から吉野への順峯、真言宗系醍醐寺三宝院(当山派)は吉野から熊野への逆峯のコースを主導していたが、現在では大峯の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峯によって行われている。
参照:大峯奥駆道マップ |
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【女人大峯】
山上ケ岳の西には稲村ヶ岳(標高1725m)があります。
女人禁制の大峯山に対し、女人大峯と呼ばれているこの山は、昔から雨乞いの山として名高く、長い間女人の入山を閉ざしてきましたが、戦後になって解禁されました。
特に山頂の大日岳に祀られた大日如来は女性行者の信仰が篤く、普通の登山者だけでなく、信仰登山でもにぎわっています。
山頂付近は高山植物が豊富に見られ、特にシャクナゲの咲く季節は素晴らしい眺めとなります。
参照:稲村ヶ岳登山マップ / 洞川マップ |
役行者誕生のj地
吉祥草寺
役行者産湯の井戸
(吉祥草寺) |
【役行者】
大峯山(大峰山)は、今から1300有余年前、舒明天皇六年(634)1月1日に、大和国茅原(現在の吉祥草寺)にご誕生せられた役行者(えんのぎょうじゃ))によって、御開山されたと伝えられています。
因みに、役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かも
の えん の きみ)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたといわれています。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたといわれています。
以来、大峯山は開祖役行者修験道・山伏の修行の根本道場として、現在に至るまで、さまざまな困難を超え、山伏の聖地とし、て山上ヶ岳の女人禁制と共に守られています。
役行者は、現在の吉祥草寺、葛城の裕福な家庭に生まれ、幼き頃より神童の誉れが高く、七歳より仏法を学び、十九歳にして大峯山に入峯されたと伝えられています。当時の未開の御山は、神山として犯さざる御山として、恐れと畏敬の念を持たれていたと言われています。他方、一度入れば命の保障は無く、魑魅魍魎の世界とも言われていました。現在でも少し道を外れれば、方向が解らなくなり遭難する方がおられますが、確かに未開の御山は遭難のリスクは高く、また熊、猪等の凶暴な動物も多かったと推測されます。その大峯山に入り、道を開き橋を架け、ご開山されたといわれています。
役行者は、幼名を金杵丸(麿)、こんしょまる(まろ)、と呼ばれ、お母様(白専女 しらとうめ)が、ある夜、天空から金色の独鈷杵が降りてきて、口の中に入るという夢を、ご覧になられご懐妊され、生まれた赤ちゃんの頭には角がついていたといわれています。
それが、金杵丸(麿)、小角(おずぬ)の由来と言われています。
お母様は、役行者が大峯山へご修行の際は麓まで見送られたといわれています。
それが現在の、母公像をお祀りされた、大峯山母公堂の由来といわれています。
また、お母様も役行者と共に修行をされ、女山伏の祖ともいわれています。
現在、男性の先達に対して、女性の輔教は、男女の違いと、修行の自然なあり方を示すものと成っています。
また役小角(えんのおづぬ)、役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれています。
優婆塞即ち在家にして仏法修行を許されたる行者、役行者は出家しての僧侶では無く、優婆塞と伝えられています。
それは、仏教伝来が日本書紀によれば西暦552年に、百済より伝えられています。
役行者は、約1365年前即ち、西暦651年、仏教伝来から約100年後にご誕生されたと言われています。
また鑑真和上が、754年に来日されています。
つまり授戒、僧侶制の始まりが754年と成り、役行者誕生から約100年後と言うことに成ります。
役行者から100年後、優婆塞として大峯山等で修行をしていた空海(弘法大師)が、中国へ渡るのに必要に成った僧籍、僧侶に成られたお話と、符合致します。また真言宗系の影響を受けた流儀を当山流、天台宗系の影響を受けた流儀を本山流と呼び、明治以前には真言当山流であり、大峯山護持院櫻本坊では、大師堂があり弘法大師がお祀りされています。
また、空海の弟子にあたる聖宝(理源大師 )は、修験道の中興の祖といわれ、修験道は真言宗の影響を強く受けています。つまり修験道役行者は空海に影響を与え、修験道は空海真言宗に影響を受けたということに成ります。
因みに、明治には廃仏毀釈、神仏習合、神童を推し進められています。
明治7年(1874年)には、明治政府により修験道が禁止されています。 金峯山寺(金峯山に点在する寺院群の総体)は、一時期、廃寺となり復職神勤しますが、
同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。本山流はこの時期の天台流儀であります。 其の後、戦争の時代、昭和14年(1939年)9月第二次世界大戦の始まり、 昭和20年(1945年))の敗戦終結。 昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗されています。
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【大峯山l信徒会】
大峯山護持院に先達号及び袈裟法螺等の所持を許可された修験道山伏・行者(在家信徒)で構成される。 毎年5月28日には瀧谷不動尊、10月1日には吉野櫻本坊において柴灯大護摩供が櫻本坊院主大導師の元厳修される
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【大峯山寺阪堺役講】
高祖神変大菩薩の遺徳を追慕し、大日大聖不動明王・金剛蔵王権現を信仰し、
護持院、吉野区、洞川区、と共に大峯山寺の管理の役割を担うもので、
大峯山の戸開け・戸閉め柴燈大護摩供行事等の役割りを承る講である。
大阪四島の岩・三郷・光明・京橋と、堺四島の鳥毛・井筒・五流・両郷の、
八講をもって大峯山寺阪堺役講と称したものである |
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【大峰山の宿場・洞川】
洞川は、大峰山の宿場町として、奈良県吉野郡天川村、山上ヶ岳の女人結界門から4km西に位置し、龍泉寺 、蛇之倉七尾山 、一之行場 、母公堂 、 面不動 、 ごろごろ水 、 かりがね橋 、五代松鍾乳洞 、修験道役行者所縁のお寺や行場等が在ります。また大峰山の漢方薬として有名な、陀羅尼助丸のお店も多く在ります。
参考:大峯山洞川マップ(PDF) |
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【大峰山修験道の里・吉野】
大峰山山上ヶ岳から約20kmに修験の里・吉野が在り、金峯山寺や大峰山護持院等が在ります。毎年10月1日に吉野聖天大祭が大峰山護持院櫻本坊で行われ 、吉水神社 、勝手神社 、脳天大神龍王院、洞川と吉野の中間地点に 天河大辨財天社、 弁才天、が在り、吉野では毎年7月7日には、吉野蛙飛び祭りが行われ、吉野の桜は有名で多くの観光客が訪れる。また、柿の葉寿司も有名でお店が点在しています。また、よもぎ団子も修行の疲れを癒してくれます。 |